しあわせ工房

プラス思考の人々が住むイタリアは、あらゆる幸福観にも対応できる、
君の“ライフデザインプロトタイプ”だ。読むだけで人生が変わる。

何かのご縁もシンクロのうち
1 Ottobre (Venerdi`)2004
 今日から10月。ミラノでは、バカンスが終わったすぐあとの9月、皆一斉に通常の生活に戻り、仕事に打ち込む。そんなわけで、やることがたくさん残っている状態で、1ヶ月が過ぎてしまった。数日前から、うちにスタッフが紹介してくれた、日本のある旅行代理店の人から、メールを頂いており、昨日は国際電話までしてくれた。数ヶ月前この方とスタッフと僕と、ドゥオモ近くのレストランで食事をし、彼はヴェネチアのホテルを取っていたのと、中央駅近くのホテルとのアポがあるというので、地下鉄で中央駅まで案内した後、分かれた。名刺交換をしていたので、その後はメールで挨拶だったのだが、当サイトを見てくれ、10月にロンドンとミラノ方面に来られる女性一人の問い合わせがあるので、ホームステイについて詳しく知りたいと言う。
 うちのサイトも、もっと具体的に理解できるようなものにしないといけないはずだが、かなり遅れている。お問い合わせのプログラムは、参加者募集しているているホームステイで宿泊し、毎日イタリアでの生活を体験できるプログラムに参加していただけ、特に毎晩料理教室として料理を家庭の主婦と一緒に作り、その後、その家族と一緒に食事できるようになっている。このプログラムでは、通常、ホストファミリーでは、料理教室が1度行なわれる。毎日、朝食つきだが、ホストファミリー以外でも、ミラノのそれぞれ違う家庭で、それぞれ違う家庭の主婦から家庭料理を作るところを見せてもらう。いずれも、料理が終わったら一緒に食事をする。ただし、このプログラムは、料理の修業をする人たちのためのものではない。まずは、イタリアの仮定というものを見せてもらい参考にするものだ。花嫁修業としては、充実した経験になるだろう。
 一般に外国などに旅行される場合。ツアーとして、大人数で窮屈な思いをし、お決まりの観光しかできないか、気ままな個人旅行なら、それはないにしても、言葉もできないし、どこへ行ったらいいかわからない。危険も多いとなる。そのどちらのメリットもあり、どちらのデメリットも失くしたのが、このプログラム「Dolce Vita」である。
 まず、参加者が空港に到着したら、現地スタッフが、ステイ先まで送迎し、ステイ先での朝食、毎夕食の料理教室。ピアチェンツァ・ワイナリーの見学、ミラノ市内案内は含まれている。他、予定の空いている時を利用して、自分でミニツアーに出かけたり、現地でオプショナルとして、ミニツアー(コモ、ベルガモなど)やアウトレットに送迎を依頼できる。
 どの家庭も親日的な人ばかりを選んでおり、日本語も通じやすい。それでいて生活の空気を自然に感じてもらえる。
 そして、最終日に、親日家のイタリア人を集めてパーティーをしている。
 現代の日本人は、簡単に海外にいけるようになった。海外を観て、海外で買い物をして、海外で学ぶ。そして海外で「暮らすように遊ぶ」から暮らすまでの体験を協力するのが、当プログラムの目的である。
イタリアでの友達づくりの役に立てるために。
2 Ottobre (Sabato)2004
 Vita feliceのいかなるプログラムも、現地の人々との交流パーティーを用意している。
 言葉や習慣の違う、日本人とイタリア人。外国語を普段話さない人にとって恥ずかしいと思うのは、日本人だけではなく、自分の国に住んでいて日本語を話さなくて困ると言うことのないイタリア人にもあるようだ。
 かと言って、無理やり国の違う人たちを結びつけるつもりはない。もともと、「国や人種の違いを感じない」というのが僕の方針だから。僕自身、イタリア人だから友達になりたいとも思ったことはない。ただ、イタリアでだからこそ、友達になれたという、イタリア人以外の外国人や、そして、日本人同士なら言葉や、習慣をよく知っていることから、どんどん友達になった。僕にとって重要なのは、日本人にしても、そうでなくても、「どこどこの国では、日本人とつきあわずにいた」とか「どこどこの国で、ずっと日本人ばかりと過ごした」そのどちらも間違いだと思うからだ。本当にオープンであると言うことは、海外にいる自分の国の人も、現地の人も大切に考えることではないだろうか。
 日本で生活している時、日本人同士でさえ、なかなか仲良くなれなかったのに、イタリアに来て、この国の空気で、日本人同士が知り合い、仲良くなれることで、得られたモノを考えると、それだけでイタリアに来た価値はあるのだ。
歴史中心地区(Centro storico)
3 Ottobre (Domenica)2004
 だいたいのイタリア周遊ツアーに参加すると、主要都市を観光するのがほとんどだ。
 ミラノ・ヴェネチア・フィレンツェ・ローマなどだ。これらの町は、見所もあって、大きな町であり、それゆえ、便利もいいのだが、見所が多い町が、この中からはずされているものもある。例えばヴェローナ、ナポリなど。ヴェローナは、ミラノとヴェネチアの中間にあるので、寄ってゆくことはある。ミラノは、大きな国際空港があるので、まず、優先される。
 しかし、時間的に余裕のないツアーは、ヴェネチアを優先するため、ヴェローナが省略されることもあるのだ。もう一つ、ナポリだけを見るというより、カプリ、ポンペイを短時間で回る方を優先されるが、ナポリはローマの南にあり、やはり大きな国際空港のあるローマへ行く途中のフィレンツェへは行きやすいが、ナポリに行くにはローマからさらに移動しなければならない。しかも、カプリとなると、フェリーなど船で移動するので1日空けないと行けないのだ。大きな町だとしても、時間的な都合と、見所がやや乏しい(と言っても、イタリアでは、どこへ行っても興味深いのだが・・・。)ゆえに周遊コースから外される町は、トリノ、ジェノヴァ、ボローニャなど・・・。私は観光の仕事としても、これらの町を回ったし、観光とは別の仕事として、あるいはプライベートでも、イタリアのたくさんの町を知れば知るほど、あまり観光客がたくさんでない町の方が、自分自身が溶け込めるようで、面白いのだ。ほとんどのツアーでは立ち寄らない、それほど大きな町ではなく、それほどの見所があるというわけでもないのに、そこにいるだけで居心地がいいのは、フェッラーラ、そしてリミニである。

 さて、本題に入ろう。これらの町の教会や宮殿にはあらゆる時代のあらゆる建築様式の建物があり、イタリアは、ひとつの国でありながら、それぞれが、独自の文化をもっており、飽きることがない。それでいて、都市の構造の基本的な部分で、特にイタリアあるいはヨーロッパと歴史を感じない国、日本(わが国は歴史的なものを破壊してきたためだが。)やアメリカのそれと違う点は、前者には千年以上に及び、人々が住み、ゆったりと変貌して来た歴史のある中心街が必ずあることだ。
 ミラノでは、まるで指輪にリングのように丸い城壁とお城が町を囲んでいた平野の町。
 ヴェネチアは、100以上のそれぞれ運河となり分かれている島の上に建設された天然要塞にもなった町。フィレッツェは、まわりに丘で囲まれ、平地と丘の間のあたりに城壁を作り、アルノ川が町を分けている。ローマにもテヴェレ川が流れているが、こちらは7つの丘の上に作った町。どの町も、古い地区を中心に、そこは車両の通行が規制されており、人口も少ない。真ん中がぽっかり空いて、まわりに新しい建物がある町を作り、車が走り、工場があり、人が多く住んでいる。ヨーロッパの都市は、その長い歴史の中で、ずっと城壁を必要としてきた。城壁の外は、危険な場所で、世界の終わりだった。つまり、大陸に住んでいる危険を避けるために、町を島のように隔てたのだ。(実際に、城壁の周りには、たいがい水を張ったお堀があった。)だから、歴史地区の周りを大きくしただけで、町を離れると、突然、広々とした田園風景にかわる。一方、もともと島国のイギリスやわが国では、町から町まで切れ目なく建物が続く景色が多いのだという。
 この歴史地区の真ん中には、だいたい最重要な教会が位置している。イタリアの多くの町は、その教会をドゥオモ(DUOMO)と呼ぶかカッテドラーレ(Cattedrale)と呼んでいるかのどちらかだ。そして、かつての君主公爵(DUCA)、ヴェネチアでは、共和国ゆえに選挙で選出されるドージェ(DOGE)による政治の中心に使われた建物が並ぶ。このような建物は、500〜600年前のものである場合が多く、それを保護するには、大部分を歩行者天国にしてしまう。もともと日曜日は、交通量が少ないのだが、思い切って、「市内中心部どこまで車両進入禁止」と言う御触れが新聞やテレビにニュースで発表される。イタリア語がわかるイタリア人でさえ、ついうっかり、規制されている道路に進入し、その場合は、罰金をとられることになる。
 車好きとして世界に知られているイタリア人が、車で町を自由に回れないというのは、まったく矛盾している。もちろん車は多い。イタリア人二人に対して1台の車台数(アメリカとほぼ同じ。日本は3人に1台)というから、これだけの車は、歴史地区のまわりに溢れている。歩道に駐車するのはもちろん、道路のセンターラインに並べて駐車している車もある。このまま車が増え続け、おまけに歩行者天国も広げられたらどうなるのだろう?
 歴史地区は、車のない時代に作られているから、歩いて見てこそ、よさがある。馬に乗れるなら、これ以上の物はない。でも、冒頭で紹介した私がお気に入りのフェッラーラでは、この歴史地区には自転車に乗った人を多く見る。自転車がこれほど格好よく便利に見えたのも珍しいくらいである。
 少し前の中国では、あまり車が走っておらず、あれだけの人民が自転車にのって大通りを往来していたが、中国人は、これからは車を買い始めるだろう。
 だからこそ、歴史のあるヨーロッパも先進国を自称する国も自転車ブームをまきおこしてはどうか?
はじめて海外に行く人にも、海外には慣れていると言う人にも。
4 Ottobre (Lunedi`)2004
 Vita Feliceは、はじめての海外旅行でイタリアにやってくる人のために、Dolce Vitaがある。イタリアへ到着したときから、まずは送迎サービス。イタリアでの生活体験では、すべてこちらが用意したプログラムで案内しているから、楽々、安心。目的を持ってやって来る人には、宿泊や、学校と行った何か部分的な部分でもサポートするBella Vita。イタリアには、何度も来ているが、仕事として新しい何かを開拓が必要になった。リサーチ、通訳、輸出入のサポートなど、ビジネスのお手伝いをするViva la Vita。
 イタリアで、何かをするときには必ずお役に立てる3本立てプログラムになっている。
個人旅行で得たコンセプト
5 Ottobre (Martedi`)2004
 オレがはじめて海外へ旅立った1988年。目的は、観光旅行でも、留学でも、お買い物でもなかった。
 ユダヤ民族やゲルマン民族などが、大移動をして、歴史を変えてきたのと同じで、マルコ・ポーロやコロンブスは、旅をすることで、世界を変えてきたのだ。
 誰でも簡単に海外旅行にいける現代では、これだけの大旅行をしても、世界の歴史を変えるには、ちょっとシンドイが、自分の歴史は変えられる。
 これまで、スペインでも、イタリアでも、何の目的でやってきたのか聞かれても、すぐになぜかを言うことが、なかなかできなかった。と言っても、なんとなくというのではない。
 イタリアに住み、これからイタリアへやってきて、それぞれのことを学ぼうという人や、この国の製品を買い付けてビジネスしようという人、イタリア人と友達になろうという人が、助かると思ってくれるサービスを自分の事業としている今は、「このようなことに人生をかけるつもりで、ここにいる」と言えるし、自分自身の目的が、はっきりしてきた。
 はじめてやって来た頃は、まだ、20代の中ごろだったから、周りの人にとっては結構生意気だっただろうし、迷惑をかけたこともある。この場を借りてお許しいただきたい。
 そのかわり、他の観光客や、留学生が、入って行かなかった現地の生活にも入っていた。あるエピソードを思い出す。ナポリに行けば、道端で売っているお土産物のカセットテープに値段は書いてない。聞けば当然吹っかけてくる。もともと、観光客ならそんなところで買い物はしないものだが、相手は、オレがどんな思想を持っているかを見抜くんじゃなく、東洋人の顔をしているというだけのことなんだ。イタリア語ができなかったその頃、ノートを持って歩いていた。そのノートは、コミュニケーションをとるために、イラストで説明したり、この時は、数字を書いて値切るために使った。ナポリでは値切るのが当然とは言っても、観光客には、値段を吊り上げたいぐらいだ。物売りの彼は、最初、そんな値段で売るつもりはないと言うしぐさをしたが、それなら興味ないという風にして、行こうとすると引き止められ、値段はなんと半分になった。そのあとでは「この日本人は、もうこちらの流儀を身につけているぜ。」と、親近感を持って笑っている場面を見たオレもやはり「よし、うまくいっている」とニヤッとしたものだ。
 その方法を身につけたオレは、少しずつイタリア語を身につけ、直接人と話しながら、言葉を覚えたのだった。この経験のお陰で、今でも、どこの国に行っても、独学で、そこの国の言葉をマスターする自信を持っている。しかし、いくらネーティヴと、どんどん話したからと言って、正しい文法は身につかない。中には、英語の文法をスペイン語やイタリア語に置き換えて話す人もいる。それでも通じないこともないし、それほど不便でもないが、オレはスペインとイタリアに関しては「現地の人が話すように話せるようになりたい」と言う目標を掲げていた。特にイタリア語をうまく話せる力は、誰にも譲りたくないつもりでしたので、その理由も含めて、初歩のレベルのオレは、スペイン語を学習用の語学に選び、マドリッドに住むことになった。ほんの1ヶ月ほど、ユーレイルパスで、イタリアミラノから始まったバックパッカーまがいの旅は、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、そして、メッシーナとイタリアを見たあと、地理的な都合上、パリ(当時は生活体験を優先していたので、あまり興味を示さず)を経由して、タルゴと言う列車でマドリードに入る。
 その後マドリッドをはじめ、バルセロナ、ヴァレンシア、アリカンテ、マラガのあとマドリッドに1年4ヶ月滞在することになる。アンダルシアは気に入っていたので、マドリッドから再び、セビリアやグラナダ、ロンダをまわることになるが、もともと、本命と言うものは楽しみに取っておくと言う習性を持つオレは、このスペイン滞在のあとで、イタリアに渡ることになる。
 オレのこれまでスペイン・イタリアで滞在した16年のエピソードは、後日も、思い出しながら書いて行きたいが、この日の日誌のまとめは、このようなオレ自身の生活体験で、蓄積したことを、これからやってくる人のために役立てたいというのがVita Feliceのコンセプトの基本となっていると言うことなのだ。

アユタク
結局は自分と言うものが求めているものを探す。それが出会い。
6 Ottobre (Mercoledi`)2004
 イタリア生活体験が、観光旅行ではない、その魅力とは「出会い」である。イタリアに来る人には、やはりその国に暮らすイタリア人の姿をぜひ見てほしい。その国が、そこの国の人をつくったのだから、どんな人が住んでいるか、知っておくことは価値がある。
 はっきり言って、イタリア人とはどんなのかというイメージは、イタリア人に出会うたびに、それぞれ違うのであてにしない方が安全である。なぜならイタリア人とは、個性が強くて、それぞれ違うと言うのが正しいからだ。
 ただ、そこで、どこの国の人に出会っても、素晴らしい人に出会い、自分が求めている何かが得られることが最重要である。メキシコに行ってドイツ人に出会っても、アフリカで同じ国の日本人と出会っても、常にオープンであれば、自分が求めているものがなにかによって、求めている人は誰か、となるから、それがたまたまどこかの国の人であるに過ぎない。複数の異性を好きになることも決して間違っているとは思わない。結婚するならこの人で、恋愛するならこの人という感情を否定してはいけない。
 問題は、自分の気持ちと相手の気持ち。自分の立場と相手の立場。時には、そっと思う気持ちだけで幸福感を感じるなら、そのままでいい。

 海外の生活は、人との出会いをサポートする。イタリアという舞台は、その中でも開放的な空気が、人に影響を与える。

グイド
便利な「旅」のノート。
7 Ottobre (Giovedi`)2004
 5日に書いた旅の体験記のつづき。
 最初に到着した空港は、チューリッヒ。翌日には、ミラノに出発を決めていた。なぜ、チューリッヒに到着したかと言うと、当時、格安航空券は大韓航空で、ソウル、バーレーンという2つの空港を経由してヨーロッパに到着した。それからは、ユーレイルパスを使い放題で、大旅行するつもりでいたからだ。チューリッヒ空港へ到着した頃には、機内で知り合ったカナダ人英語教師とスイス在住のドイツ人宣教師とすっかり意気投合しており、英語辞書及び、簡単なノートにいろいろ書き込みコミュニケーションしていたからだ。
 ドイツ人宣教師は、日本での宣教で、結構日本語をマスターしていて、空港でも、中国の新聞を見つけたら、間違えて「日本の新聞もありますね」と、親切にいろいろ教えてくれた。ヨーロッパでは、日本と違ってお辞儀をして挨拶をしない、握手だけでいいのです。」と、本当に親切な人となれば、こちらも素直に受け止める。
 この宣教師には、同僚の友達が迎えに来ており、オレにホテル名を聞き、送ってくれると言う。その友達が、イタリア人だと紹介されたのを今でも覚えており、想像していたイタリア人ではなく、完全な金髪ヘアだった。彼らと同乗した車は、日産バネットバンで、オレは日本で同じ車種に乗っていたので、すごく親近感があった。彼らもまた、「日本の車ですね」と、日本車と日本人の両方に敬意をリスペクトしてくれ、オレの旅は、いいスタートを切った。その日の、チューリッヒのホテルは、格安航空券と込みになっているサービスで、お湯がよく出る快適なのを覚えている。今思えば、さすがスイスなのだ。
 このホテル名までは、よく思い出せないのだが、いずれもこのホテル到着以来、ノートを付け始めていたのだ。近くにちょっと買い物に行く時にも、ノートとボールペンは持ってゆく。この習慣は、今でも続けている。ノートでなくても、小さい紙切れでも、デジカメでもいい。なにかアイデアが浮かぶとそれが消えないうちに、どんどん書いてゆく。夜、寝るときには、ベッドの近くにメモできるものを置いておいて、見た夢でも、イメージでも書いてゆく。この日、チューリッヒの町をブラブラし、そこで見たもの、そのままドイツ語の看板の文字と建物。お店なら何を売っているか?イタリアに来た時は、イタリア語で、同じようにスケッチというかメモと言うか。物の値段や、レジのお姉さんの特徴、話しかけられて、どのように聞こえたかを書き写す。間違って書き写していても、あとで楽しいものになったりする。
 今でも、楽しく思い出せるのは、ミラノからヴェネチアへと向かう列車で出会った、老人と、その奥さんや連れの人たちである。
 チューリッヒから到着した同じ駅、ミラノ中央駅のプラットホームは、巨大な鉄のアーチが地上から架かっており、天井はガラス張りの実に見事なイタリア建築の傑作である。
 場内に響き渡る、イタリア語独特のアナウンスは、まるで、その舞台を演出する音楽である。
 コンパートメント式のその列車、夕方出発するヴェネチア・サンタルチア行きの車内は、乗客でいっぱいだった。
 常に人が行き来する通路には、立ったままの人もいるが、オレたちは、通路の窓下に収納されたイスにかろうじて座ることができたが、人が通るたびに立たなければならないのだった。その老人は、たまたまオレの横に座った人で、他の乗客もそうだが、当時、あまり、今ほど外国人がいなかったことから、こちらをじろじろ見ている。イタリア人は、だいたい話し好きなことを知っていたので、手持ちの「5ヶ国語会話辞典」のようなものを開きながら、「ヴェネチアまで、あといくつ駅がありますか」という、フリ仮名のカタカナ読みイタリア語に、聞く方が苦労をしながら、我慢強く、理解しようと努力してくれた。こういう時、お年寄りの方が親切である。俺は当時、「ベネチア」と発音して読んでいたのだが、その地名がどこにあるかと、連れの人と顔を見合わせて話し合っている。そのうち、貸してみろ、とオレからその会話集を奪い取ると、「あー、なんだ『ヴェネーツィア』か!」と言う具合に、本場の発音を、こんな感じでマスターすることにした。まるで、映画の一場面のようだと思った。だからこそ、文法を知らなくたって、イタリア人が発音しているのを真似しながら、思いっきりなりきることをイタリア語マスターの第1歩として優先させたのだ。
 しかし、会話辞典を見ながらでは、本当に会話できるとは言えない。今度は、リュックからノートを出してきて、説明風の絵を書きながら、相手に見せる「絵による会話」を始めた。
 どうやら、この老人は、日本人のオレを見たときから、日本とイタリアは、ドイツを加えた三国同盟を結んでいたと言う親近感を持っていてくれたらしい。戦争の話になった。どうやら、この老人は、出兵し、戦地のどこかで、日本人と出会ったということを話しているなどなど、言葉そのものは、わからなかったけど、話の内容は、とても理解できたし、オレ個人的に使いたい単語や言葉を使うシツエーションを読み取れた。老人は、途中駅で、降りたが、「あと何駅で、ヴェネチアに到着だからな」教えてくれているにもかかわらず、車内アナウンスなどの案内がないイタリアの列車のせいで、降りる駅を間違えてしまった。
 その駅のある町がどこだったか、今でもわからない。ただ、どこへ行っても、ユースホステルを探すことに決めていたのに、その町の誰に尋ねても、知らないようだった。夜遅く開いているバールで、飲んでいる若いお兄さんに尋ねたら、刺青を入れたそのお兄さんは見掛けによらず、親切にホテルを教えてくれ、車で送ってもくれた。バックパッカーみたいな東洋人から、身包み剥ぎとることは、まさかしないだろうという安心感と混ざっての心配もあったが、ちゃんと「ホテル・クリスタッロ」まで送ってくれ、レセプションにわけを説明までしてくれた。
 ホテルは高いのでに泊まるつもりはなかったが、田舎だからか、まあまあ安く泊まれた。
 翌日、窓を開けるとオレンジ色の屋根が見え、本当にイタリアに来たと言う気分を味わいながら、ヴェネチアに向かう。この日からが、ユースホステルでの宿泊の開始だったが、今でも、あの町がどこだったのか、わからないが、今思うとあのホテルに泊まったのは、かえって正解だったように思う。それからの旅でも、ずっと、そのノートを活用した。
 そのノートを、どうしたかと言うと、パリの駅で、両替する時に、置き引きに遭い、小さなリュックに入っていて、リュックを盗まれてしまい、今はもう戻ってこないので、それが非常に残念でならない。
モーダの世界。
8 Ottobre (Venerdi`)2004
 今、飛行船社の依頼で、アパート探しを手伝うことになった依頼者、野中良平君は、ミラノのモードの学校、Istituto Marangoniに、通い始めた21歳で、口にピアス、耳のピアスには、ギターのピックを二つもぶら下げている新人類だ。
 いくらミラノが、ファションの町とはいえ、まず、東洋人で、こんな格好をしていたら、お年寄りならそれだけで、アパートを貸すのを断るかもしれない。
 それでも、学校にできるだけ近いところで探し、条件が揃っているアパートをシェアするパートナーになるべきなのが、なんとモデルをする若い男性だった。
 僕の仕事は、そんなわけで、なかなかツイている。
 二人を見ていると、まるで、日本のジャニーズ系の歌手みたいだった。
 そういう僕も、一度だけ、モデルとして仕事をしたことがあり、懐かしんで、このサイトに、そのエッセイのページを作ってみた。
 この日、前から約束していた人たちと夕食をすることになり、最終電車を逃す。林さんに、お願いして、車を貸してもらうが、翌日、お互いに仕事があり、この日、家に着いたのが、夜の2時だった。
仕事が、また前みたいに多くなってきた。
9 Ottobre (Sabato)2004
 土曜日にも、仕事が入るようになってきた。そのかわり、林さんに車を返すために、5時に起床。林さんの家には、早く着きすぎたが、うちの事務所の隣にあるバールで、紅茶とカップチーノをそれぞれ飲み、早朝、店を開けている最中、歩道に出ているイスにかけて、少し話した後、お互いの仕事に向かった。朝は、市内観光。昼から、一度、電車で自宅に帰り、車で、またミラノにやってきて買い物をする。オレは、毎週土曜日だけ買い物をするからだ。夜は、飛行船から依頼されたホームステイで、フィレンツェへ行く人の空港からホテルの送迎だ。この女性は、随分前に、スペインに住み、スペイン語を勉強したが、イタリア語は、日本で勉強しただけで、イタリア語を話そうとしたら、ついスペイン語になってしまうと空港からミラノに向かう車の車内で話してくれた。オレが、14年7ヶ月前にイタリアにやってきたとき、同じ現象を体験して、非常に懐かしくなった。
日曜大工。
10 Ottobre (Domenica)2004
 自宅のキッチン、トイレ、ゲストルームなど、かなり備品の取り付けるべきところが多くあり、前からやらなくてはと思っていたのだが、やっと時間が空いた今日の日曜日。寝室の天井に穴が開いたままで、セメントを近所の知り合いまでもらいに行く。近くの大型店舗Bennetは、普通日曜日や閉店だが、理由はわからないが、今日は空いている。昨日、買い物したのだが、この機会に、肉を買い込む。日曜大工は、あまり進まなかった。
同じ通りにある指圧センターと提携スタート。
11 Ottobre (Lunedi`)2004
 オレは、スペインでも、イタリアでも、指圧修行をしてきた。指圧は、治療効果もあるが、それだけではなく、人と人の関係の潤滑油でもある。最近、ずっと、ご無沙汰しているのだが、当オフィスのあるVia Paciniに、Centro Benessereがあり、TOZAIと同じAssociazione(協会)として運営されている。
 実は、今日、その組織の会長が、うちにやってきた。二つのご近所協会の相互協力を話し合うことになった。やっとこれで指圧を活動に取り入れ、これまでの修行が役に立つ時が来たのだ。

多生の縁は、縁の下の力持ち。
12 Ottobre (Martedi`)2004
 今日は、久しぶりに観光ガイドがあり、早く家を出て地下鉄に乗ると、僕の日本語教室で、水曜日の上級者コースに来てくれるAlbertaと、地下鉄の車内で、出会った。
 この時一緒にいた男性は、一目見て、旦那さんだとわかった。弁護士だと言う。
 Albertaを呼ぶと、気がついた彼女は、日本語で「おはようございます」そして、旦那さんも日本語で挨拶してくれた。実は、旦那さんは、これしか知らないとのことだが、その後、彼女と僕が、日本語で会話をしているのを見た、満員電車車内の乗客は、ちらちらと珍しそうに、こちらを見ている。不思議な気持ちになっただろう。こんな雰囲気を見た人たちには「日本語まで話すイタリア人が、最近多くなった」と言う印象を与えただろう。
 この、偶然の出会いも、イタリアの、ほんの数人に何かのメッセージを与えるきっかけとなり、やがては大きな力へと代わるものだと思う。
イタリアの日本人。
13 Ottobre (Mercoledi`)2004
 まず、日本を離れて外国生活をすると、日本料理が、恋しい。日本語の活字が読みたい。日本人と話をしたい。という人たちがいる。来てから1年も経たないうちから、その禁断症状が始まる人、外国で暮らすことが、苦行になっている人もいる。それを恥ずかしがって、日本人の友達がいないのを自慢にする人もいるが、それは間違っている。イタリアにいてイタリア人の友達が多いのは、自慢にできるが、自分のことは棚に上げて、自分の国の同胞を恥ずかしがるのは、日本人くらいのものだ。
 イタリア人だったら、外国で生活し始めてすぐに、「イタリアだったらこうなのに」と、イタリア以上にいいところはない、と思っている。特に、食べ物に限っては、我慢してまで、他の国に馴染むことが、自慢できるとは夢にも思わないだろう。だから、日本人も自信を持って、日本に誇りを持ち、されど、他の国が劣っていると見るイタリア人を決して、いいとは言わない。だから、外国のいいところは認めるべきである。
 さて、オレは、最近、日本人の友達が増え、たいへん満足である。ここのところ、日本語教室が、週3本になって、できるだけ、日本人のスペシャルゲストを、授業に迎える。
 レギュラーになってきたのが、東洋炭素ヨーロッパの林さんだ。林さんは、TOZAIの熱心な会員Ambrogioなどに誘われて、会合に参加してくれ、それをきっかけに、仕事をくれた。その会社が、イタリアの会社だったのを買収し、技術指導しており、その通訳を、と依頼された。
 その頃から、我が事務所に、人の出入りが結構多くなってきた。林さんは、家族との帰国時に、空港への送迎を依頼してくれたり、なるべく仕事をくれようとしてくれるし、これまで、数回、他の人たちを誘って夕食したり、一緒にビールを飲んだり、遊び友達になってくれる。Ambrogioの彼女の紹介で、この事務所に来てくれ、日本で有名番組に出演したり、ナレーターとして、第1線で活躍していたのをスパッとやめ、ミラノでまったく違う人生をはじめた山下亜美さんのキャラクターは、すごいの一言に尽きる。
 フレッシュな若い女性で、屈託なく、知り合ったきっかけとは関係なく、アパートが変わるときに、こちらのお客さん用に話を付けてくれたり、日本語教室に興味を持ってくれ、イタリア人の友達作りを兼ねて、協力してくれたり、明るい性格は、教室の空気も変えてしまう片岡あやさん。そんな人達に知り合えて満足していたら、今朝、ずっと前に、バイトを依頼するはずで、登録してくれた、吉井のり子さんとvia Pacini(Vita Felice事務所がある通り)で、ばったり会い、その、遭った場所から一番近いバールでコーヒーを奢って立ち話をした。
 やっと、事務所がまとまってきたら、活動もスムーズになり、人もやってくるようになった。先週の金曜日に食事をしたメンバーたちだ。
さりげなくすごい人脈。
14 Ottobre (Giovedi`)2004
 昨日、水曜日は、日本語教室上級者コースの日である。この日本語をイタリア人に教えるという活動は、オレが観光ガイド修行時代に、人前で話をすることに快感を覚えたことで、それをヒントにし、要望もあっったので、はじめたものなのだ。
 観光案内というのは、たとえお客さんであっても、モノを買いに来ているではなく、話を聞きにきているようなもので、おまけに拍手までもらえ、ついつい病み付きになる仕事かもしれない。日本語教室でも、母国語である日本語を、ここではイタリア人に教えると言うもので、やはり、やっていて楽しいものだ。。
 TOZAI文化協会はつくったものの、まさか、それで仕事にしようとまではそれほど思っていなかった。このコースがスタートして、第4週目。今頃になって、やっと気がついたのだが、このコースのメンバーって結構すごい人脈が揃っている。と、言っても、他のコースのメンバーが、凡人だと言っているわけではないんだけど。
 まず、日本語を勉強したい、と、やってきて、実は、大学で日本語を勉強したというAnnaは、フランスとの国境にあたる町、Ventimiglia(イタリア・リグリア州)出身の女性で、事務所にやってきて、「書籍コーナーはないか」と聞くので、「無料新聞CityMilanoで、よく日本の記事が多いので、その切抜きがある」というと、「私は、その新聞社に勤めているのよ」という。そのあと、上級者コースの生徒を集めたところ、やってきたのは、ずっと前から、TOZAI会員になっていたRaffaellaだ。彼女は、ベルガモと言う町にある、国際空港に勤めている。Tizianaも、早くから会員になってくれていて、実はその時、ロンドンに住んでたのである。最近、実家のミラノで生活しているが、ロンドンでの留学で、大学の美術史を専攻し、しばらく博物館で働いていた。もう一人、すでに会員になっていたMaurizioは、ミラノ工科大学を卒業し、パッケージに使われる機械の設計をするエンジニアだ。
 フランス人のMarieは、まだ、学生だが、ミラノに留学でやってきて、やはりエンジニアになる勉強をしているが、複数の語学を習得しており、趣味で日本語を始めたという。
 職業が銀行員と言う人が、二人もいる。まず、Christianは、たまたま僕の銀行口座があるBanca Intesaに勤務しているらしい。年長の女性、Albertaは、事務所と同じ、via Paciniに住み、弁護士の夫をもつ。彼女は、アメリカの銀行に勤めている。
 これまで、それほど、気がつかなかったのも、イタリアでは、肩書きをそれほど、重要に扱わず、結構、気さくにつきあってくれるからだ。しかも、こっちに住んでいる日本人は、日本人だと言うだけで、すごい人物が、平気で、友達だったりすることがある。
 海外での生活は、面白い。

 明日、Vita Feliceに参加するお客さんが到着。パソコンに向かっている時間が取れなくなるので、プログラム終了後の20日まで、日誌をお休みして、再開する21日に、その6日間の記録を書きます。
最近順調な事業。
21 Ottobre (Giovedi`)2004
 15日から、6日間にかけて、ひとりだけのお客さんについた。このEさんは、まず、ミラノLinete空港に到着。飛行機は予定時刻より5分前に着陸。Eさんは、その1分後に出てきた。彼女と、ホームステイのホストファミリーへ。
 この日は、ホストファミリーで、ウエルカムディナー。翌日は、ミラノにある提携のPizzeria Gaffurioで、仕事を見学。その間、アパート探ししていた野中君の入居を手伝う。約1時間後、再びPizzeriaに帰り、GaffurioのオーナーアルドとEさんと3人でパンを買いに行ってから同ピッツェリアで昼食後、メルカートを案内し、この日は終わり。
 第3日目日曜日は、ホストファミリーで2度の家庭料理教室。買い物にも同行。第4日目は、ミラノ市内観光後リディアさんという専業主婦の家庭で3回目家庭料理教室。その後は、基本的にフリータイム。彼女が好きなMax & MaraのアウトレットDiffusione Tessileで、お買い物。買い物を楽しんでもらっている間に、事務所に帰り、メールチェック。夕食会の参加者数をまとめて予約。7時半、夕食会場La Corte Fioritaで、集合。この日、21人が、合流パーティーに参加。テーブルの半分は、イタリア語がまだの日本人と、その近くに日本語ができるイタリア人を。後半分は、日本語を勉強始めたばかりのイタリア人と、イタリア語が話せる日本人、とバランスを考えて席に着き、定食は12ユーロと超お得な価格に少し驚き。(Dolce vitaプログラムに参加のEさんは、料金に込み。)このパーティーに参加のイタリア人にしても、日本からやってきて新鮮な人に会うのをたいへん期待してやってくる。お互いの名前を付け合う。イタリア人は日本人名を、日本人はイタリア人名をもつことができる。
 第4日目、piacenzaのワイナリー見学。Castello di Luzzanoで、試飲しながらワインについての通訳。発泡性のあるBarbera frizzanteは、2003年物の若いワインで、パスタに合う。同品種葡萄でつくられたBarbera fermoは、1999年もの。アルコール度数が高く重いので、肉料理に最適。特に野生動物など。Benardaは、Barberaと同様Oltrepo` pavese地域のワイン。Malvasia dolceは、前菜やお菓子に合うColli piacentiniを代表するワイン。Eさんが、Spumanteの発泡性について質問したので、ワインの説明がさらに奥深いものになった。
 その夜は、ホストファミリーから近い家庭レジーナさんの家で家庭料理教室。3歳の女の子が、サロンでうたた寝をしている。ご主人であるパオロさんは、Roncolongoという赤ワインを飲ませてくれた。この家庭では、レジーナさんの出身地サルデーニャ島の料理子羊など。そして、出発日。朝早くホストファミリーを出えて、最後の晩餐の絵が見られるSanta Maria delle Grazie教会へ。9時30分到着後、すぐにチケット購入に成功。その後Duomoに向かい、スカラ座とアーケードGalleria Vittorio Emanuele II見学後、この日関西フェアをやっているメルカンティ広場に寄ったあとすぐマルペンサへ。
 無事ご出発されたあと、今度はあやさんに会い引越しのお手伝い。一緒にCodognoの中学校を下見して帰る。あやさんは、日本語教室のお手伝いも手伝ってくれた人で、今後、協力してくれるという。ここ数日間更新していなかった仕事を今日、再スタートする。日本人の仕事でミラノに来ている人々の住居紹介と、来週から日本語教室も再開する。
今年もあとわずか!?
22 Ottobre (venerdi`)2004
 げげっ!
 カレンダーを見たら、今年もわずか2ヶ月と8日しかない。あやさんがうちに来て手伝ってくれることになり、それが今年いっぱいは確実だが、来年以降については、少し先で検討するということを話し合った。それで、どのくらいの期間いてくれることになるのだろうと考えた時、このことに気がついたのだ。今年これと言ったことはしていないが、夏が終わり、この日誌がスタートし、いろんなことがやっと動いてきたと思ったら、なんと残された年の少ないことか。
 けれども、時間を1年で考えずに、この2ヶ月をいかに有意義に使うかを考えたい。
 それには、時間を有効に使うことにしよう。たとえば通勤の電車の中で、パソコンをつかって仕事をすることも、やはり復活させよう。
参考になるコミュニティー。
27 Ottobre (Mercoledi`)2004
 イタリアでは、バカンスや週末を利用し、集まるグループがあり、ミラノの西側に位置するピエモンテ州に大規模なコミュニティーをもつDamanhurミラノから見て南側、に位置するトスカーナ州で、主に夏のバカンスに多くのイタリア人が、ヨーガや瞑想、バイオダンスなど講習を受けられるAlchimia d`estate (夏の錬金術)がそうだ。オレは、どちらも、足を運んでいる。ピエモンテと言えば、あのスローフードの発祥地Braがある。この州や州都トリノは、魔術だとか異教的なことが盛んなのが有名で、このDamanhurも、新興宗教的な性質を持っている。トスカーナは、のどかで明るい田舎があり、居心地は抜群で、普通にバカンスしていても楽しいのだが、1週間と言う短期間で多くを得るためにイベントや講習を盛り沢山に行なうが、まったく義務ではないので、宿泊と食事だけを利用することもできる。
 Damanhurの方は、このコミューニティー内部だけの宗教、結婚、命名され、実社会と遮断されがちではあるが、Alchimia d`estateは、開放的である。
どちらにも共通しているのは、居心地のよさである。コミュニティーというもの自体、閉鎖的なイメージを持ってしまいがちだが、それが開放的になる、何より居心地のよさは、イタリアならではだろう。
 これらのウエブサイトは、イタリア語だし、参加者は、東洋的な活動を楽しんでいる。
 日本から参加し、イタリア文化に触れる生活体験を味わうというVita Felice発足に、これらを知ったことは非常に参考になった。ここではDolce Vitaというプログラムで応用させてもらっている。
居心地を研究する。
28 Ottobre (Givedi`)2004
 昨日、かつて僕が参加した体験型バカンスのことを書いて、かつてこの様なイベントに参加することにかなり凝っていたのを思い出した。Damanhurはすごい。そこへ行けば、そこだけで呼ばれる名前を付けてくれる。ほとんどが動物名である。その上、そこで出会った男女が、そのコミュニティー内だけで認める結婚をするのだ。しかも、有効期限があり、1年後に更新するか、解約すると言う。当然、相手を何度も替えることもできるし、結婚していなければ、そこには、たくさんの若者が生活していて、しかも、のんびりしているから、毎日デートの相手を探しているのを日課にしている奴もいるくらいだ。。仕事と言えば、アートだとかセラピーだとか・・・。Alchimia d`estateは、ニューエイジをテーマにイベントに参加して過ごす1週間だが、たとえばその宿泊施設に一緒にいても家族単位だけで固まり、他の泊り客はバラバラに行動する、普通のバカンスとは違って、ヨーガ、瞑想、バイオダンスとあらゆる講習を受けながら、参加者が出会い、お互いを知り合う方法は、画期的だ。イタリアではニューエイジがイタリア風にバカンスを楽しむ要素を大きく発展させたようで、特にバイオダンスは、参加者同士のスキンシップが非常に大きい。イタリアでは、人が元気になるだけではなく、すごく人が好きになる。カトリックの国でありながら、ここではキリスト教国でもない地域からやってきた文化を扱うことをきっかけに、みんな現代的な自由なメンタリティーを持っている自由人たちだ。そんな開放的な環境だからこそ、そこで出会う人たちは限定されたイタリア人たちなのかもしれない。環境は開放的であっても、人は限定されている方が居心地がいい。

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